「勉強の哲学 来たるべきバカのために」という本を読んだ。
千葉雅也さんという哲学家の方が書いた本なのだけど、
「もっと高度なことを知ったり、考えられるようになりたい」
と思っていた私にとってすごくぴったりの本だった。
「学問」を志してる人というか、
何か自分の専門分野というものに対して高度な知識がある人を尊敬する。
難しい本が読めたり、自分の知識を元に世界を見れるなんてなんとも素晴らしいなと思う。
私だったら、音楽についてや美術についてをもっと知れていたらと思うのだ。
知識が乏しい。
自分で作曲や絵を描くことができること自体は素晴らしいことだと思うのだけど、
何か時代の背景だったり、そういう芸術についてもっと知っていなければ芸術家としてどうなんだろう・・と思ってしまう。
というかそもそも私は芸術家と言っていいほどの背景がある人間なのかな、なんて考えてしまう。
この本ではアイロニー(ツッコミと解釈)とユーモア(ボケと解釈)という言葉が出てくるんだけど、日常の中で「こうあるべき」とされているものに対してツッコミやボケを入れる視点が、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的なスキルと言っている。
「もっと自己実現しなきゃいけないんじゃないか」とずっと思ってるようなソワソワ感があった。
もっと大きい仕事しなきゃとか、もっと有名にならなきゃとか。
そういう世俗的な欲望を持っている自分に対してソワソワしていた。
このソワソワというのは「しなきゃいけない」と思い込み切ってしまっていること。
自己実現を目指すのは、自分を高めようとする姿勢やエネルギーに満ち溢れた行為で、これ自体を否定しているわけじゃない。私は過去の記事で思いっきり自己実現への夢を語ったりしているし、そういう自分だって自分だ。
でも、その「環境から自由になる」ということをしてみたかった。違う考え方や価値観にも、身を置いてみたいという気持ちが、自分の中である。
「自己実現を目指す」というのは環境の影響も大きい。
周りの人や、ビジネス書や自己啓発書が、そうやって「もっとすごい自分になること」を特に理由も述べず、「良し」としてくる環境に自分から飛び込んでしまっていたからだ。
「成功すること」というのをアイロニー(ツッコミ)的には「え?成功なんて周りに流されてるだけじゃない?」「成功って自分を楽しくさせてくれるの?」「面倒なだけなのでは」「今もすでに幸せだしなんでわざわざそういうものを追いかけるのか」などと自分に問いかけることで、私は周りに流されていたことに気づく。
「成功を目指す」というコミュニティのノリに対して、ノリを悪くする。
自己実現推奨のコミュニティの中で完全に「浮く」ということになる。
でも、それでいい。
周りから「浮き」、新たな言語(他の国の言葉問いう意味ではなく)を得てから環境に戻る・・
本の中では、
勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
言語がキモくなっているために、環境にフィットしない人になる。
と書かれているのだけど、私も周りに流されず自分の価値観をしっかり構築するのに、一度キモくなりたいと思った。
(これは私の解釈というか、本を読んで私が得たと思ったように書いてるだけで、実際はもっと知識を他の例で使えると思います)
では、どんな分野の勉強をするか?
ということについて、本の中ではどうやって自分の専門分野を見つけるかということについても触れられている。
自分が根本的に抱いている興味の見つけ方について本に書いてあるので、良かったら本を読んでみてほしい。
そして結局私はその部分を消化しきれておらず、どの分野を自分の分野にしようかすごく迷っている。
本屋に行って、今まで読まなかったような本をたくさん手に取ったりした。
どれも難しい。
でも、これを機に「勉強」をしようと思っている熱意は本物。
自分の価値観を、壊したり、新たな興味に胸を焦がしたり、
知的体験を味わってみたいと思う。